2014年12月3日水曜日

日本陸軍第15師団の再開発 ~愛知大学・高師緑地~

高師緑地は散歩でよく足を運ぶ場所だ。
そして、今年の散歩で愛知大学内の現存する旧陸軍庁舎に参ろうと思ったが、結局は敷地内に足を踏み入れられず仕舞いで、これからも怖くて当分行けない。
散歩計画を策定した今年5月に並行して、この辺り「高師原」の歴史的な地理も学んだ。
その時の調査の進行に沿って記述する。


まず、国土地理院の空中写真から探した。
件の一帯で最も古い写真は1959年(昭和34年)5月8日撮影であった。

画像の赤線:後述の場所として見当のつく範囲を示す


この時点で既に愛知大学を始めとする教育機関群(福岡・栄小学校、南部中学校、時習館高校、県立豊橋工業高校)、そして高師緑地や隣のユニチカの区画までもがはっきりと浮き彫りに。
当時でも各々の基本的な区画は定まっていたことになるが、これら教育機関が立派に集積されたこの地域も、まだまだ農地が目立つ様子であった。
現在住宅地となっている場所の多くは、畑が主体の農地だったのだ。
郊外に宅地開発が及んでも、豊橋は名実共に全国屈指の農業都市ではある。

この文教エリア・学園都市において、画像中に未だ開設されざるものを求めよう。
中野小は昭和60年に分離で開校、豊橋聾学校は昭和47年に現在地に移転とのこと。
現在の時習館高校の北側のグラウンドはこの時まだ畑だった?
福岡保育園は運営法人の施設一覧ページに昭和22年8月1日とある(認可年月日:昭和46年1月1日というのは、運営団体が法人化されて以後に登記名目が変更された日付であろう)。
このほか、広大な敷地で後の教育機関や商業施設などに変容する場所が、この時点で既に現在の施設と同等の区画を有しながら、別の建物が建っていた(例えば工場など?)ことについては、最早俺個人で調べられる領域を脱している為、収集不可能。


更に古い写真や地図がないか探した。
画像検索から探し出すというとても簡易な手法で挑んだら、豊橋市美術博物館のサイトに1931年(昭和6年)の古地図が載せてある。
http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=4439 (名称は「豊橋及其近郊」)

こちらにおいても高師緑地と思しき区画が左半分に浮かんでいる。
ほか、「高師原」と題した1938年の地図が「日文研データベース>所蔵地図」より見つかり、かつての豊橋鉄道渥美線における空池駅(からいけ、1944年6月5日に休止して1977年に廃止された)の位置(高師緑地北端の交差点よりも北にある)が確認できた。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2249.html



続いて、この日本陸軍第15師団の地名にまつわる情報を書く。
「高師原」とされる梅田川以北に一つ、「天伯原」とされる梅田川以南に一つといった、二つの広大な敷地から構成されている。
この情報は上記の博物館のページの上2点の地図を見ていただければ想像に易い。
渥美線の駅名にも旧「師団口駅・兵器廠前駅・陸軍病院前駅(後年いずれも改称されている)」など影響を与えているが、駅の利用者もこれらの施設に目的がある者が殆どではなかろうか。
・・・陸軍の施設を除いては、延々と広がる畑くらいしかなかっただろうし。

余談だが、「天伯原」の名を見ると「天生原」を思い出す、何のことかしら。
かつては全国各地の農耕地帯や草原などはみな「原」という字が地名に付随していたのか。
農耕開拓以前の原野の時からでもあろう。
「高師の名 普く渥美に 轟けり(五七五)」彼の時代に於ける広大なる高師村。
其の残影、今尚も高師町の名に残り、剰えJR線を越したる先に飛び地ぞある。


最後になるけど、この15師団に関する記述のある記事って以前も書いたよね、と思ってメモ帳内を探してみたけど見つからなかった。
その最中で、次の手段に及んだ際、即座に「まさかYouTubeで書いたことじゃないの?」という真実に気付き、それらしい動画を見つけたが、説明文参照。
まあこの記事は、15師団を初めとする情報に特化した明確な差別化をさせてるし。
YouTube投稿動画の方へ気付かなければ、メモ帳内で、無い物をずっと探し続けることに。



今回の記事は私の愛読ブログ「咲いた万歩」さんリスペクト。
恐縮ながらリンクさせて頂きますhttp://blog.goo.ne.jp/manpoarukuhito
このブログは散歩記事がメインであると同時に、たまにこのようなその土地の歴史について調査した記事を投稿しており、今回の記事はそれへの憧憬もあるが、私と大きく異なるのは、私の考え方や感情を押し出す私の記事と比べ、いい意味で淡々と必要な情報のみを記すところ。
まあ私としては、敢えて雑駁な身の上を綴ることで、個性に含める意図があるけどね。



ほか、後日見つけたページ「陸軍の町 福岡」
http://www.fukuoka-e.toyohashi.ed.jp/tiiki/tiiki4.html
豊橋市立福岡小学校のHPであり、この項目には15師団、十五師団の施設の現在の土地利用についてなどが簡潔に記される。
それ以外の情報は、かなり詳しく書いてある。



ほか、後年の記事の追記事項
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/ruiju-7.html
2016年4月29日は「高師(たかし)」に相当する名前が倭名類聚抄に載っていることを知った。訓読みの漢字表記が「高蘆(たかし、高天原"たかまヶはら"のように"あ"の連続を省くか。後に高足)」で、漢字音写は「多加之(たかし)」である。同書では渥美郡に属す。意外と由緒がある名前であった。「高蘆」を冠する神社もある。当該記述の話題は「高師原」だが、「高蘆原・高芦原」と表記を変えると、付近の「芦原」の地名は「高師」から副次的に生じたものと考えてよいように思った。
更に文学的な方面を探すと、有名な歌人・西行法師などの歌にも、広域名称としての「高師」が登場している。
http://web.archive.org/web/20080708030447/http://www.techjapan.co.jp/kitakuraHP/tokaido/14.html
「高師山 はるかに見ゆる ふじの根を 行くなる人に 尋ねてぞしる」 藤原為家
「朝風に 湊をいづる 友船は 高師の山の もみぢなりけり」 西行
これらの歌に見られる「高師」とは、愛知県豊橋市の高師緑地・高師原に代表される地域のことを指すとは、断言しづらい感覚がある。
愛知県豊橋市に隣接する静岡県湖西市に、静岡県湖西市新居町浜名高師山という地名がある。
日本鹿子という江戸時代中期の書にも「遠江國(=現在の静岡県西部)名所之部 高師山 二川の宿と白須賀の宿との間なり、北は山、南は海なり」とあるそうで、湖西市内に高師山と呼ばれる名所があることを示唆している。

別方面には「たかしのはま」という表現もあるが、豊橋市高師町とその近辺は梅田川・柳生川の流域が主要であり、海は三河湾が近くとも、豊橋市南部の浜には遠い。
今の二川・岩屋地域や静岡県湖西市一部なども、古来「高師」と呼ばれていたか、住人が称していた可能性もあろう。
また、単純に「高蘆、高い芦・葦・蘆・アシ」という意味で「たかし」と呼ばれていたところ、この豊橋市高師町のような高師と同一視された可能性もある。


備考:地理座標 (geographic coordinates)
「愛知大学内の現存する旧陸軍庁舎」…愛知大学豊橋キャンパスにある愛知大学東亜同文書院大学記念センター・愛知大学記念館で旧大日本帝国陸軍第十五師団司令部庁舎
 34° 44′ 24.2″ N, 137° 23′ 11.27″ E (DMS, 度分秒表記の例)
 N 34.740057, E 137.386464 (decimal, 10進数表記の例)
後者のGoogle地図使用例→https://www.google.co.jp/maps/@34.740057,137.386464,227m/data=!3m1!1e3?hl=ja



後年の追記

実は大阪にも「高師浜」があり、2013年から私が話題にしていた「荒木探偵、のんちゃん」(北海道出身、京都市在住)がアイススケート目的で来ていた。
高石市という名前との関連を思わせる。
日本語の音韻論での高母音削除 (high vowel deletion) の方法で、音素「たかいし /ta.ka.i.si/」の /ka.i/ が /ka/ と低母音(広母音)側に吸収されて(ただし中母音かしないという、複合語としては稀なケース)「たかし /ta.ka.si/」と変わった可能性がある。
『日本書紀』巻第三十、持統天皇に、「准(なぞらふ)河內國(かふちのくに)大鳥郡(おほとりのこほり)高脚海(たかしのうみ)」(新字体+訓読:河内国の大鳥郡の高脚海に准ふ)とある



0 件のコメント:

コメントを投稿

当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。