2015年1月14日水曜日

悲愁の抒情詩

悲しみが止まらない。
あの日のときめきを浸潤させてくれ。
この乾き果てた心に。。。

種々多々なるその手段。欲望を満たすこと。
手近なことはゲームなのか、ゲームで自堕落になるのは、どうかと。
ああ、色欲なのだ。人肌恋しいというものだ。
俺はもはやありふれた温もりにさえ飢えている。

求める気持ち。渇望。
儚い望みを持つような心、捨てられるならどれだけ楽でいられるか。
何ら実りをもたらさない嘆きの元凶、そのしがらみから解かれる。
永劫に苦境が輪廻する・・・苦輪からの解脱とは大仰な形容だろうか。

まさに今、空の東の低きに、下方へ弧を描いた半月が浮かんでいる。
まるで没落していく天空の城をも彷彿させる様相であった。
これまた大仰な形容だろうか。

その月の高さは、半刻後に上昇していた。
それは、虚飾なき事実である。

(平成27年1月12日深夜 - 識別番号(392)が「落月」という名前。)

-この頃ゲームをいたずらに卑下してる気がしなくもない。
-敬遠が高じて糾弾へと悪変するのは好きくないので歯止めを利かせてね。



1月11日深夜、床にて。硬き褥。
「すめらぎのよもにあまねしおほみいつかたきしとねにふせておもひぬ」

謎の日本語・・・・・・ 前半と後半の落差を見よ。
前後の区切りはいずこにあるか、諸君らのまなこで見抜いてほしい。
前半の訳:難しいことを 後半の訳:押入れの中にて考えた

10時間前後・以上眠るか二度寝すると逆に酷い疲れが・・・
体が弱いのか、寝具が悪いのか。
上の句でもその苦を仄めかしている。



この頃の悲しみの元凶って何だろうか、何となく気付けた。
最近は何をしてきたか、これから何ができるのか。
空漠たる懐疑、その「無力感・虚脱感」が誘発されてる。

1月13日までの数日、主に勉強、教養系のサイトで言語の学習。
歴史的に、漢文然り、日本の古い書物然り。
勉強という行為に意味や価値があることなのかと思ってしまうが、いいや、勉強を通して世渡り、利益を得ようとか、俗っぽく功利的に捉えてはいけない
勉強の是非というのは、俺の中での果てしない追及になってる。

日々が有意義かを計るものさしは、やはり創作物になる。
音楽制作然り、絵の練習然り、はたまたこのような記事投稿も然り。あと動画か。
これらの何か形が、創作物が。これを即物的な見地であるという。
やはり実体を伴う「物」がなければ自他共に判断し難い。

しかし重々承知していようとも私の体を素直にそう仕向けることは易くない。
創作活動を怠っている現状というより、怠ってしまうか躍起にならない心境の方が、長い目で見て至極不安である。
2010~11年のコンビニ通いという無駄遣いの悪習から脱却できた経験など、人生には数多く脱却経験があるため、今の倦怠傾向を打破できればいいものだが。

2014年6月末から作曲に本腰を入れたあの時、ピーク時は月10曲ほどは作っただろう。
あの作曲に注力した、そう、初心に帰るとは、俺が憧れた何か、素晴らしいもの、嘗てと今で価値観が違うならば、今の俺が素晴らしいと感ぜられるものを。
「このまま続ければ、かの猛者たちに比肩する能力を得られる」、そんな志。
難しい、あの燃え盛った時間を振り返れば、3ヶ月坊主だったのかもしれない。


宗教家や歌人たちが世の儚さを譬えた言葉を遺した、その気持ちは今の自分と一緒か。
自分の過ごす時間が無為に過ぎているのではないか、そう思うから充たそうと志すのか。
それとも、ただ無力さを憂う中で拉がれるだけなのか。
17・18歳という今の若輩の身では、あまりに早すぎて、とても筆舌に尽くしがたい。


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