2015年5月6日水曜日

私の歴史観と言語の密接な関係

歴史とはそもそもなんであろうか。
現代日本では当然、古今東西、人類の文明的な歩みを指す。
少なくとも、人の寿命の及ぶ時間を歴史と呼ぶには些か足りないと思う。
100年ならまだしも、2015年現在より80年以内でしかない、戦時中の大日本帝国の振る舞い云々で「歴史の真実を直視」と喧伝する類の人ほど歴史に無頓着だろう。

私の好む歴史とは、大局的に500年以上前~2000年ほど前である。
これこそが貫禄ある「歴史学」の領分だろう。
時広き且つ文献も多く存在しており、既存のものでさえ研鑽には一生かけても飽くことなし。

それでは極論を弄せば、百万年以上前の人類の進化、乃至数十億年も遡る太古の地球の歴史はより壮大だと言えるだろう。
然るに、それらは歴史というよりも生物学・地理学に類し、天文学にさえ当たる。
これは「歴史」という文系ニュアンスから些か離れる。
3000年以上前の文明・遺跡調査等ならば「考古学」という広義の歴史学にあろうか。



それでは私の興味の範囲にある500年以上前~2000年ほど前がいかに高尚であるか。
そもそもこの歴史を学ぶことは、日本語・英語という文明的二大言語の根幹が強く関係していることに起因する。

日本語はこの間に多くの語句が生まれ、中国大陸より諸々の書物も伝わり、解読にあたっては既存の日本語の語句を訓読にあてた。
今の日本語の「漢字+かな」という構図の原点はこれである。
解読にあたって便宜的に作られた日本語の言葉も多くあり、これは中国大陸という進んだ文明にあって様々な物や事象が言語化されていたから追いつく為である。
日本語の真理を知る上で、東アジアにおけるこの長久の時代を学ぶ必要性はとても強い。

今の中国語は、漢字の故郷とて紛い物である。
1000年ほど前から清に至るまでに現在の漢字の読みが定着したが、これは1500年以上前のサンスクリット語の音写語句を見れば、いかに本来からかけ離れたものであるか論を俟たない。
サンスクリット音写で多く用いられた漢字の読み方さえもが、どのような経緯で全く異なる読み方に変化したものか、想像の付きようがない。
ことに佛(仏)の字義はサンスクリット音写で用いられてより決定されたが、これを「ブツ」ならぬ「フォ」と発音すればサンスクリット語の原音より離れてしまう。
過去記事に詳細あり→http://lesbophilia.blogspot.com/2015/03/blog-post_30.html

日本の鎌倉時代などにおける仏教の論文は漢文形式がメインであったが、これは1000年以上前の中国人に見せたら容易に理解してくれるだろう。
今の中国人は頭に疑問符を浮かべることと思う。

道元さんの書を改めて見てたら、「玉フ(給う)」があった、俺まだ浅学だよね。
こういった表現は流石に、もとの漢文見ても1000年以上前の中国人はわからなさそうだ。
私の見た訓読文のページでは「アタハス(能わず)」「オモヘリ(思えり)」など、漢字にすべきものが漢字でないが、「玉フ」は漢字であるが、原典はいずれもこうなのだろうか?
日本語の表現に同音の漢字を便宜的に当てているならば、中国や渡来時の正統な意味とは当然離れているため、1000の人が見ても当然わからない。
「玉(ギョク)」が高尚な物で、「たまう」が高尚な人間の行為という点は通じる。

・・・この変な例は、「日本人が読むために訓読の便宜上」あてられたもので、玉の件は当然現代日本でも有り得ない。
最悪な蛇足となった、「道元さんの書」からここまでの既述は4月21日追記されたもので、以下からの文は4月20日にかいたもの、本当に読者におかれては紛らわしい記事となる。
より蛇足だが、4月23日に戦後の論文見ていたが、ここでも「玉ふ」という当て方が見られた。
「たまう」という表現自体、経文など読むと「たまわく」とク語法となるが、原文にそれに相当する漢字がない以上、訓読文でも漢字は用いられない。
以下より話したかったことに戻るが、追記分の「某元」以降は無視して読むべし。



中国では、時代と共に字義も音韻も分離していった性質が強い。
漢や呉の時代よりすれば、北京も上海も台湾・香港ほか方言も同様だ。
字形であれば、略体を全面使用した簡体字の存在が単純明快である。

日本の方が遅く伝わった分、真面目に今日まで継承しているのだ。
もちろん、日本の新字体も似たようなもので、この点においては台湾・香港あたりの繁体字が優れているのかもしれない。
そんな私は簡体字も繁体字も近頃頭に入れるようにしている。



英語についても、ギリシャ語やそれを踏襲してアルファベットを用いたラテン語のその昔からすれば、ぐちゃぐちゃで氾濫した発音の法則があり、不安定である。
日本語のローマナイゼーションのような整然さには遠い。
日本語ロマナゼこそが2000年前のラテン式にとりわけ近いものとみなせる。
ラテン文字はラテン語圏の最大帝国・ローマであるからローマ字である。

英語学習も日本語と同様に、源流・根本を掘り下げることが飛躍的な向上に結びつく学習法だとしているが、それにあたってはギリシャ文字まで覚えようとする有り様。
1年以上前にも「キリル文字くらいは読めるように」と少々かじったことはあった。
今年は3月より仏教関連ばかり勉強しているから、英語など西洋の言語は疎かになっているため、このままではギリシャ文字もキリル文字も雀の涙ほどの量だが、折角の知識が漏れて無下にされてしまう。
漏れずに容器内で留まってくれることを祈るばかりだ。



4月23日の寝る前に、「印欧語根」という、名前だけでも興味を誘う言葉を見た。
英語を覚える手がかりとは日本語と同じように「語根」にあり、実際にネイティブというものは幼少よりその感覚を掴んで着実に言語を身に着ける。
随って、「(ギリシャ)語根」を専門に扱った過去記事も投稿している。

起きてより検索をしてみたのだが、「印欧祖語」ということも検索してみると、興味深くも少し目が丸くなるような単純明快の画像も見た。
まあもちろん、ラテンましてやギリシャの前身にある言語というものはあって然るべきだが、このあたりまで掘り下げて学ぶのは少々難がある。
日本人で英語が堪能な者でさえ、果たしてギリシャ・ラテンにどれほど入っているか知れないところを、在野で年端も行かない私がこの学術的領域に首を突っ込んでよいものか。



申し訳程度に英語、最新のラテン語根の勉強の話を書く。
4月24日、キッチンに保管されている抹茶を取り出して作ることにした。
これは2014年のいつだかより購入、開封されて以後、冷蔵庫保管推奨の注意書きも無視され常温放置されたまま2015年3月8日の賞味期限が切れたものである。
母親がもらったものか、自ら購入したものか不明だが、無責任ではないか。

今回は初めて茶筅・茶碗等も使ってそれなりに点てたが、泡などは激しくやってもたたず、どういう濃度が丁度いいかを知らない私がかなり濃い目で味付けもせず飲むことになった。
保存環境と切れた賞味期限などの条件から、衛生面の不安もあったが、口に苦すぎる毒に、惰弱なる雑菌の殖える余地はないと看做して、不安はなくなった。

それはさておき、勉強の話だが、まずタンニンと鉄分吸収だとか便秘がどうだとかを調べてから、抹茶について少々調べた。
続いて、英語版記事"Camellia sinensis"の文字列を見て「カメリアシネンシスってアムニオセンテシスみたいだ!」と興味がそそられ、原料のチャノキに関する記事を覗いた。
この学名にある"Sinensis"は、接頭辞"Sino-(中国)"、接尾辞"-ensis(産地)"より構成されている。
"Sinensis"が付く学名は「当帰」という漢方薬の原料などがあるようだが、これは日本にも自生しているらしい。
それにしても、ちょっとした学名にも"Disambiguation(曖昧さ回避)"ページがあるとは驚きだ。
それぞれの文字から始まる単語にも曖昧さ回避のページが設けられている。

ところで、英語版Wiktionary漁っても、"sino, sina, sinum, sinus"いずれを見たところでラテン語「中国」を意味する記述がなかった。
他のネット上検索でも答えが出ない。Google翻訳の英語→ラテン語で"China"を訳すと"China"と出るが、"China"がラテン語であるわけはないし、"Chinese"では"Illicium"と出てきた。
"Illicium"自体は複数の「樒(シキミ)」などで学名に用いられているようだが、これまたWiktionaryにはラテン語として載せてなく、意味も「誘惑」だとか「ルアー」と記されている。
こういう勉強関係で常のことだが、やはりネットで核心を得た答えは出せないようだ。



衛生面の話に戻るが、茶碗は事前に一度洗ったのに茶筅の方は洗わず使った。
いざ、使用後の洗浄の時に、指を突っ込んだら砂っぽい垢のような汚れがまとわり付いた。
やはり茶筅も事前に洗うべきだったのだろう。

それと、賞味期限についても、抹茶だけでなくコーヒー豆も2015年3月に切れたものがある。
あの母親が買い物でインスタントコーヒーを全然買わなくなって、この豆を挽いてコーヒーを作るようになったのも、偏に切れた賞味期限の問題が絡んでいるからと見える。
自分で買って、長く使わず放置して、無責任なことだと思う。
だが、捨ててしまうよりはマシかもしれない。



4月25日も勉強になった点があるので縷々並べる。
まず、「4月21日の蛇足」部分の注釈だが、「たまふ→玉ふ」といった、日本語に意味を伴わない訓読みの漢字を当てることを、万葉仮名に限って「借訓」と呼ぶ。
この「万葉仮名」とは、既述の「サンスクリット語音写」が日本語においても行われた類のもので、平安までの和歌に用いられた。
「万葉仮名」自体は元々認知していたが、当ブログでは一度として語を書いていなかった。
万葉仮名は、音写というより「借音」というようである。

同時に、「小」を「シャオ"Xiao"」と読む、現代中国の発音としての認識がついていたこれ、実は唐音で、遣唐使の時代でもされていたっぽいね。
清・明など漢音"Ei"、呉音"You"の音が"In"に変わるこれも実は唐音だと数日内に知ったが、シャオよ、お前もか・・・
呉音・漢音の伝わり方が幾らか遅いことも薄々気付いていたが、なぜ時代の差が付くかというと、朝鮮半島で根付いた読み方が伝わるからだとかどうだとか。
唐音について2週間ほど前に少しだけ調べたとき、室町時代でようやく?だった?

まあ、いずれも再度調査すればいいが、ほら、私の探究心だとか感じてもらいたいよね。
少し遠い記憶で曖昧なことを、調べ直してから繕うように綴る気はあんまりないね。
これ書いてるの、だいぶ眠いからいつも以上に乱文だよね、もう寝よう・・・
馴染んだ口語的な表現は、未だ甘えの心から制御しきれていないことがわかる。


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あしからず。

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